「道場六三郎」いまだ現役? 和の鉄人
94歳、いまだ現役? 和の鉄人「道場六三郎」に料理の神髄を聞く>94歳、12月2025年

料理の腕だけでは一流の料理人になれない」と道場六三郎さんは語る。現在、89歳になる“和の鉄人”は日本料理の世界に革命を起こし、『料理の鉄人』では斬新な発想で視聴者を釘付けにしてきた。紆余曲折の末にたどり着いた独特の料理哲学とは…?
2/19/2020



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みちば ろくさぶろう
道場 六三郎
生誕出身校職業流派身長テレビ番組受賞公式サイト
1931年1月3日 94歳?
日本 石川県江沼郡山中町
山中尋常高等小学校
料理人
日本料理
168 cm (5 ft 6 in)
『料理の鉄人』
『金曜時代劇 スキッと一心太助』
旭日小綬章受章
──伝説の番組『料理の鉄人』が始まったのは、今から23年前になります。最近はどのような活動をされているんですか?
道場 このごろはあまりお店のほうに顔を出しているわけでもないんですよ。いつも僕がお店で偉そうにしていたら、料理長をはじめとした現場のスタッフも委縮しちゃうでしょうし。だけど、どうしても僕がいないとマズい場面もあるんです。たとえば明日なんて団体のお客さん80人が来るんですけど、僕目当てでわざわざ地方から来てくれるのに、そこに僕がいないというのもね……。あとは1か月ごとにお店のメニューを変えているんだけど、さすがにこれだけは自分で決めなきゃダメ。正直、家にいてもやることなんてさほどないんです。すぐ寝たくなるから、なるべく出歩くようにしていますけど。
魚屋の手伝いから料理の道へ
魚屋の手伝いから料理の道へ
──今回は道場さんの半生を中心にお伺いできればと思います。まず、どんな子どもでした?
道場 僕が小学校の時分に支那事変(日中戦争)が起こったんです。そして14歳のとき、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わった。それが昭和20年ですね。だから少年時代は常に戦争と背中合わせでした。うちの実家は漆職人だったんだけど、とにかくみんな食うのに必死な時代でしたよ。サツマイモやカボチャを、漆のお碗と物々交換していましたから。住んでいたのは石川県の山中温泉です。19歳で東京に出るまでは、ずっとそこにいました。
──最初に自分で作った料理のことは覚えていますか?
道場 どうだろうな……。小さいころは母が炊いたお米の匂いがすごく好きでしたね。「いい匂いだなぁ」と子ども心にワクワクしていたことを覚えています。あと、うちは父が料理をする人だったんですよね。『家の光』という農協系の家庭雑誌が家に送られてきたんですけど、それを見ながらいろいろ試していました。当時は「男子、厨房に立つべからず」なんていう考えがまだ残っていたから、珍しかったのかもしれないな。
ナマコを綺麗に洗って酢で和えたり、イワシをぬか漬けにしたり……。弁当のおかずも、イワシを焼いたものが1匹入っているということが多かった。北陸の海で獲れる季節のものを料理にしていましたね。あとは味噌も自分の家で作っていました。そういった親の手伝いが、自分で料理を始める出発点なのかもしれません。
──調理人になったきっかけは?
道場 もともと僕は漆の仕事が大嫌いだったんですよね。というのも、漆というのはじっとしていないとダメなんですよ。ドタバタしていると埃が立ちますから。ところが僕は元来落ち着きがないものだから、話にならないわけです。そんなとき、魚屋をやっていた知り合いの親父さんが病気で倒れてしまった。それで僕に声がかかったんです。「頼む。助けてくれ!」と。
当時の山中温泉では、何かおめでたいことがあると鯛の刺身を出していたんですね。あるいは鯛の姿焼きを折詰にした。旅館はお客さんに出す料理を魚屋から下ろすわけだけど、その中で魚屋も調理を手伝わなくてはいけなくなってくる。そこで初めて本格的に包丁を握るようになりました。もともと手先は器用なほうだったし、料理することは楽しかったですよ。鯛ができるようになると、今度はヒラメやスズキを下すようになりました。
料理には夢がある」と上京
──東京に出てきた経緯は?
道場 山中温泉には『よしのや』という大きな旅館がありましてね。そこの料理長が「お前も手に職をつけなきゃダメだぞ」ということで紹介状を書いてくれたんです。あのころ、印象深いことがあって、築地『新喜楽』のオーナーが長者番付の1位になったんです。松下幸之助さんが6位とかだった時代にですよ? なんだか子ども心にも料理には夢があるように感じたんです。
上京して働いた最初のお店は銀座の『くろかべ』。田舎から出てきたばかりの身には、とにかく銀座の華やかな世界がまぶしかったですね。お店のすぐ近くに『週刊平凡』の会社(現・マガジンハウス)があって、その前にはロマンス社という出版社があった。今の若い人は知らないだろうけど、高田稔さん、龍崎一郎さん、高峰秀子さん……当時の大スターたちがロマンスに出入りしていたんです。その縁で、僕も高田さんから靴をもらったりしましたし。
──駆け出し時代、仕事面で戸惑ったことは?
道場 石川でやっていたときと若干勝手が違うことがあったんです。たとえば当時の北陸だと生きた魚がまだ珍しかったから、スズキの小さい状態であるフッコがまな板の上で動いたのを見て「あ、生きてる!」と驚いたりもしました。それからアユの塩焼きを作る場合、本来はヒレ塩してから綺麗に塩を洗い落とさなくちゃいけないんだけど、洗うのを忘れてこっぴどく怒られたこともあったな。
でも、怒られたのはそれくらいですよ。あのころは兵隊帰りの人も多かったし、すぐ手が出る人が多かったですけどね。僕は要領がいいと言うのかな、先回りして仕事する癖がついていたんです。たとえば鍋が吹きこぼれるとガス台のところが汚くなるわけですけど、それを朝の4時まで綺麗に掃除したりとか……。あとは調理場の整理整頓。店に来たときに、ビシッと調理環境が整っていることが大事だと思っていたので。
首相官邸で出張料理
首相官邸で出張料理
──なるほど。その後は職場を転々としたようですが。
道場 銀座の次は神戸に行って、『神戸観光ホテル』へ。これは『くろかべ』の親父さんが店を移るということになって、「それなら」ということで僕もついていくことにしたんです。そして、その次が同じく神戸の『六甲花壇』。ところが、ここで思わぬ問題が起こりましてね……。
──どうしたんですか?
道場 いや、女に惚れたんです(笑)。ところが、彼女は少し浮気性なところがありましてね。僕としては、いつも気が気じゃないわけですよ。それで「これじゃダメだ! 料理に身が入らない」ということで、次は金沢の『白雲楼』へ移ることになるんです。
──出身地に戻った格好になりますね。
道場 そう。『白雲楼』には3年いたのかな。その次は東京に戻って、芝浦の『ぼたん』。店が頻繁に変わっていたのは、料理の世界には「総上がり」と呼ばれる考え方があって、親父さんが店を移るときにスタッフも一斉に移動するんです。やっぱりそのへんは人と人の繋がりが重要な業界ですからね。そして『ぼたん』の次が赤坂の料亭『常盤家』。『常盤家』では料理長になって、ここでは都合10年続けました。
『常盤家』時代は首相官邸や議員会館でも出張料理を作りましたね。いろんな政治家の方がお店に来てくれました。佐藤栄作総理、石橋湛山さん、鳩山一郎さん……。岸信介さんが入院したときは僕も慶應義塾大学病院に通いましたしね。この前も安倍晋三首相にお会いしたとき、「昔、岸信介さんに何度もお弁当を届けたんですよ」と伝えたんです。子どものころの出来事だから、本人はまったく覚えていませんでしたけどね(笑)。
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