翼は布張りの練習機「赤とんぼ」で特攻に出撃…同期生を涙で見送り「むちゃくちゃだ」

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翼は布張りの練習機「赤とんぼ」で特攻に出撃…同期生を涙で見送り「むちゃくちゃだ」
8/13(水) 14:13配信
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読売新聞オンライン
太平洋戦争末期、日本は生きて戻ることを前提としない「特別攻撃(特攻)」を繰り返した。戦局が悪化し、特攻機が不足する中、翼が布張りの練習機も特攻兵器として投入された。海軍の飛行兵だった三重県松阪市の常川昭吾さん(97)は、出撃に備え、訓練を重ねていた。(小林加央)
【写真】「赤とんぼ」と呼ばれた練習機の復元機
台湾の基地で突然の宣告

飛行兵時代の写真を手に、特攻隊の記憶を語る三重県松阪市の常川さん
「ここは特攻隊の基地だ。明日から訓練に入る」。1945年の夏を前に、任務を伝えられないまま降り立った台湾の虎尾(こび)基地で上官から突然の宣告を受けた。
特攻志願の意思を確認されても、自分を含め誰一人辞退しなかった。仲間とは「どうせいつか死ぬんやしなあ」と気丈に言い合った。「本心では特攻に行きたい人は誰もいなかっただろうに。両親の顔が浮かぶと、死にたくなかった」と振り返る。
目の前にあったのは、「赤とんぼ」と呼ばれる練習機だった。最高時速は零戦の半分にも満たない200キロ強ほどで、翼は木製の骨組みに布を張って作られている。戦闘機に劣るこの機体に、250キロ爆弾を搭載し敵艦に体当たりする。
「鈍足なのに、爆装するとさらに重くなり、普通に飛ばすのも難しい」。毎月、数人の名前が呼ばれていく中、17歳の少年だった常川さんはその日を待ち続けた。
高度2000メートルから急降下の訓練
松阪市で生まれ、43年4月、15歳で三重海軍航空隊で海軍飛行予科練習生になった。奈良分遣隊に移り、44年3月に卒業。「進路は、内地ではなく、南方にある部隊に行けるよう希望した。今の高校生と同じ年代。考えることは浅はかだった」と苦笑する。
フィリピンやシンガポールなどで訓練を重ねた。虎尾に向かう空路では「台湾では何するんやろなあ」と仲間と談笑し、特攻は想像もしていなかった。
虎尾で特攻兵器として用意された赤とんぼは、シンガポールで操縦した零戦とは全くの別物。「飛行機がないから仕方ないが、練習機で特攻に行くなんてむちゃくちゃだ」と感じていた。
夜間の特攻を想定し、訓練は夜間や薄暮時にも行われた。高度2000メートルから操縦かんを下に押し倒し、機体を地上200メートル付近まで急降下させる訓練を繰り返し、操縦する感覚を体にたたき込んだ。
45年7月、三重海軍航空隊の同期生が出撃することになった。激励会を終えた夜、内地の方を向いて立ち尽くす同期生の姿を目にした。「彼は生きて故郷に帰れないんだ」と思うと、かける言葉も見つからず、ただ涙することしかできなかった。
同期生の赤とんぼが滑走路を離れ、機影が見えなくなるまで、手がちぎれるほど振り続けた。同期生は出撃したきり、帰らなかった。前日まで食事を共にしていた戦友の席は空いたままになった。
稼業の理容店の看板に刻んだ「平和」
8月15日、月内に出撃予定の赤とんぼに爆弾を搭載する作業をしていると、士官室に集まるよう言われた。玉音放送が流れ、出撃の機会がないまま終戦を迎えた。「もう少し戦争が長引いていれば、自分もこの世にいなかっただろう。助かった」というのが本音だった。1年以上会えていなかった両親の顔がすぐに思い浮かんだ。
復員後、松阪市内で家業の理容店を継ぎ、2014年末までハサミを握った。惨劇を繰り返さないという願いを込め、店内には自ら「平和」と彫った看板を掲げた。
「ボロボロの練習機でも特攻に向かい、将来ある若者が次々と散っていかなければならなかった。無謀な作戦でも、命じられたら従うしかないのが戦争だ。二度とあってはならない」と力強く訴えた。
特攻隊員の戦死者は6371人…専用機や人間魚雷も
生身の人間が爆弾を積んだ航空機とともに体当たりする特別攻撃作戦は、海軍が1944年10月にフィリピンで始め、陸軍も続いた。
通常の航空攻撃では米軍に痛手を与えることが困難になり、特攻の専用兵器を開発。1.2トンの爆弾を積み、時速600キロ以上で体当たりする特攻専用機「桜花」や人間魚雷「回天」などが生み出された。
「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」(東京)によると、特攻隊員の戦死者は、陸海軍合わせて計6371人(戦艦大和などによる海上特攻を除く)に上った。
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