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【阿久悠の生き方】5000曲の歌詞を残した作詞家は、昭和の時代に何を伝えたかったのか

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【阿久悠の生き方】5000曲の歌詞を残した作詞家は、昭和の時代に何を伝えたかったのか(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース 





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【阿久悠の生き方】5000曲の歌詞を残した作詞家は、昭和の時代に何を伝えたかったのか

12/2(土) 11:00配信


5000曲を残した偉大な作詞家


昭和が輝いていた時代を懸命に生きた阿久。けれど、「ちょっと止まって足元を見ようよ」と私たちに伝えたかったのではないか。阿久は2007年8月1日、尿管がんのため都内の病院で逝った。享年70。死と向き合いつつも、執筆の意欲は失わなかった。病は阿久の肉体を奪ったが、魂を奪うことはできなかった。





 気がつけばもう師走。年の瀬の恒例行事の中でも多くの注目を集めたのが、「日本レコード大賞」をはじめとした数々の歌謡賞でした。何度も口ずさみ親しんだ歌を、1年を振り返りながら、あらためて噛みしめる……。かつて、そうした賞レースの中心には、常にこの人がいました。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。生涯に5000曲もの歌詞を残した作詞家・阿久悠さんの人生に迫ります。



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「僕は怨念や情念は苦手」

 新聞記者歴35年。数え切れないほどインタビューをしてきたが、作詞家・阿久悠(1937~2007)ほど、そのとき発した言葉がいまも重く響く人はいない。



 亡くなる6カ月前の2006年11月。東京・六本木の事務所でお会いした。「男と女の愛をどう描くか」について話題になったとき、彼はこう言った。



「僕は大体、怨念や情念が苦手。虚無的な人間が一瞬だけでも虚無を忘れて愛に溺れ、愛に墜ち、熱が冷めるとやはり虚無の中にあるというのが好きなのです」



 このときは、阿久が作詞した「舟唄」(作曲・浜圭介、1979年)が効果的に使われた映画「駅 STATION」(1981年)の取材だった。主演・高倉健(1931~2014)。舞台となった北海道増毛町の居酒屋の女主人を倍賞千恵子(82)が演じている。



 雪がしんしんと降り積もる大晦日。赤ちょうちんがともる居酒屋で巡り合った男と女。お互いに言いようのない孤独を抱えていたからこそ、魂が揺さぶられるような刹那的な愛を感じたのだろう。



「最近は男と女の出会いが軽くなった。詞になる気配があまり感じられない」



 と語っていた阿久にとっては、まさにうってつけの映画だったと言える。



 ヒットメーカーとして時代に寄り添う言葉を探し続けてきた阿久は、「職業名は阿久悠」と称していた。腎臓にできたがんの除去手術を受けるため2001年9月、東京都内の病院に入ったとき、医師や看護師ら誰もが「阿久さん」と呼ぶことなく、本名の「深田公之さん」と呼んだ。



 そのときの心境を著書「生きっぱなしの記」(日本経済新聞出版社)でこう書いている。



《ぼくは、ぼくと社会を繫ぐ糸が断ち切られた気持ちになり、ただの六十四歳の、手強い病気を抱えた深田公之だと思い知らされるのである》



 阿久は、決して自分の本名が嫌いだったわけではない。本名・深田公之で生きた時間を恥じているわけでもなかった。三十数年、阿久悠と呼ばれてきただけに、阿久悠を取り上げられたような感覚が何とも心細くさせたのだろう。



 阿久が入院・手術をしたとき、64歳だった。今年、62歳になった私も入院・手術を何度か繰り返したが、62歳も64歳も決して若くはないと、病室にいてしみじみ思った。現役の新聞記者として、曲がりなりにも35年間、取材現場の第一線に立ち続けていただけに、「年齢なんて関係ない」と強がっていたところもあった。だが、病気であるという歴然とした事実を無視することはできない。阿久も年齢の重さを感じたに違いない。


「歌が迷子になっている」

 阿久の墓は静岡県伊東市の自宅近くの海を見渡す山の上にあり、墓石には「悠久」と大きく刻まれていた。2012年の秋、お参りに行ったことがあるが、海風が心地よく、太陽の光がまぶしかったのをよく覚えている。墓は現在、東京都内に移転したが、阿久にとって伊豆の海と空は創作活動の原動力になったのではないだろうか。



 生涯に5000曲の歌詞を書き、シングル売り上げは作詞家としてはトップクラスの6800万枚強。オーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ)は企画から関わり、審査員も務めた「歌謡界の巨人」阿久は、常に時代と向き合ってきた。



「歌が迷子になっている。大人の歌がないので、王道に導いて欲しい」



 と八代亜紀(73)に伝えたこともあった。昭和が終わり、平成も終わり、令和になったいま、歌の詞にどのくらい力があるのだろうか。



 ここで阿久の簡単な経歴を振り返りたい。1937(昭和12)年2月7日、兵庫県の淡路島に生まれた。父親は警察官だった。



 この3カ月後に生まれたのが美空ひばり(1937~1989)である。阿久は終生、ひばりを意識していた。



《大体ぼくは意地の強い方なので、この人にはかなわないや、とはめったに思わないのだが、何故か彼女には、最初からかなうはずの人、という思いがあった》



 と著書「愛すべき名歌たち 私的歌謡曲史」(岩波新書)の中で告白している。



 世の中の動きに耳を澄ませ、あるときは過激な、あるときは斬新な言葉をちりばめ、言葉の魔術師といわれた阿久。真っ正面からひばりと向き合ってこなかったことは事実だろうが、実は逃げたのではなく、ひばりで完成した歌の本道とは違う道を歩みたかったに違いない。



ピンク・レディーとの出会い

 阿久の経歴に戻る。明治大学文学部を卒業後、広告代理店に勤務。テレビ番組の企画などを手がけた後の1966年、フリーとなり、作詞を中心に執筆活動に入った。特に、これまでの日本の歌謡界を打ち壊したいという意欲を持って作詞活動を展開したのではないだろうか。男と女の情愛についても、「惚れた、はれた」のめめしい世界観を嫌った。



 尾崎紀世彦(1943~2012)「また逢う日まで」(作曲・筒美京平、71年)、和田アキ子(73)「あの鐘を鳴らすのはあなた」(作曲・森田公一、72年)、森昌子(65)「せんせい」(作曲・遠藤実、72年)、ペドロ&カプリシャス「ジョニィへの伝言」(作曲・都倉俊一、73年)、都はるみ(75)「北の宿から」(作曲・小林亜星、75年)、ピンク・レディー「UFO」(作曲・都倉俊一、77年)、小林旭(83)「熱き心に」(作曲・大瀧詠一、85年)など、それこそ書き切れない数の作品がある。「宇宙戦艦ヤマト」(歌・ささきいさお、作曲・宮川泰、74年)、「およげ! たいやきくん」などアニメや子ども向け歌謡曲も多く手がけている。特に、オーディション番組「スター誕生!」からは、森昌子、桜田淳子(65)、山口百恵(64)、岩崎宏美(65)、新沼謙治(67)、小泉今日子(57)ら多くのスターを生み出した。



 だが、中でも特筆すべきは、「作詞家を超えて、イメージの世界をデザインしつづけていたようで、面白い時代であった」(前掲「愛すべき名歌たち」より)と自身が回顧したピンク・レディーとの出会いだった。遊園地の新しいアトラクションを次々に作っていくような仕掛けの面白さに取り組むことで、阿久は確かに時代を動かした。



 冒頭のインタビューに戻ろう。阿久の受け答えは丁寧で明確だった。私の目の前にいるのは確かに「歌謡界の巨人」なのに、そんなそぶりは一切感じさせなかった。私は当時、北海道の最北端、稚内の支局に勤務していたが、「稚内ってどんなところなの?」と阿久から逆に質問されたくらいだ。それくらいフランクな雰囲気での取材だった。



 同様に、彼が手がけた歌の詞も、意味不明な文言や暑苦しい情緒に流されているものは一切ない。いたってシンプルである。絵画に喩えるなら、抽象画ではなく具象画である。



 だが、具象と言っても、単に事実を単純に並べるのではない。視点や構図が全く違うのだ。沢田研二(75)の「勝手にしやがれ」(作曲・大野克夫、77年)は、「壁ぎわに寝返りをうって 背中できいている」なんて、まるで映画を見ているようである。



 言葉一文字にこだわった。都はるみの「北の宿から」は「女ごころの未練でしょう」と歌い上げる。それまでの演歌のつくりだと「未練でしょうか」と問いかける形になるところを、あえて「か」を抜いた。自分を客観視し、自立する女性を登場させたのが阿久だった。都は以前、私の取材に



「『あなた死んでもいいですか』なんて言いながら、この女は絶対に死なないなと思う。強い女なんです。私に似ているなと思った」



 と話したことがある。



 阿久の詞は、人間関係が希薄になりがちな現代社会へのSOSだったかもしれない。阿久は「時代の飢餓感にボールをぶつける」ことを自分に課していた。世の中が豊かになっても満たされないものがある、と。象徴的なのは、河島英五(1952~2001)の「時代おくれ」(作曲・森田公一、86年)だろう。



《目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず》



 この国がバブルに浮かれ始めた86年、49歳のとき発表した。親友の上村一夫(1940~1986)が45歳で急逝した年だ。劇画「同棲時代」で一世を風靡し、「天才」といわれた漫画家。「彼の死がぼくを変えた。天下を取る気でいたのが空しくなった」と阿久は語っている。



 昭和が輝いていた時代を懸命に生きた阿久。けれど、「ちょっと止まって足元を見ようよ」と私たちに伝えたかったのではないか。阿久は2007年8月1日、尿管がんのため都内の病院で逝った。享年70。死と向き合いつつも、執筆の意欲は失わなかった。病は阿久の肉体を奪ったが、魂を奪うことはできなかった。



 次回は歯に衣着せぬ発言で芸能界の御意見番的存在としても知られた歌手・淡谷のり子(1907~1999)。NHKの朝の連続テレビ小説「ブギウギ」の茨田りつ子のモデルで、「ブルースの女王」と呼ばれた歌姫の素顔に迫る。



小泉信一(こいずみ・しんいち)

朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。



デイリー新潮編集部